朝早起きして、日曜日に放送されたスーパー能「世阿弥」の録画を観ました。
御覧になられましたか?
これぞ能の新潮!
あらすじを把握しなくても、頭の中に入ってきます。
現代の日本語なのですから当たり前ですけれども。
やはり天才がつくる芸術は、
わたしのような頭の悪い人間でもよくわかるように作られている。
ありがたい話です。
節回しは現代語なのに、違和感がありませんでした。
照明は見慣れない分違和感がありましたが、
お芝居を見ているようで心地よかった・・・
これも100年経てば当たり前と言われる芸術になるはずです。
それにしても、お能って、なんて裕福な「間」の使い方なのでしょうか。
日本画の「間」も、これと良く似ています。
これは西洋画の視点からは理解しがたい特有のジャパニズムなのかもしれません。
西洋画は、キャンバスを埋めなくてはいけない。
一方、日本画は、描いていないのではなくて、あえて描かない。
そこには目に見えない空気が描いてあるのです。(^m^)
※正確には、描いていないように見えるところも、実は何度も何度も塗っています。
塗らないと(とくに絹本の場合)、劣化してしまう。
「間」はその場所や時間の空気。
ある意味一番大事だと考えています。
華道だって間(空間)が命ですから、
日本の芸術とはみんな同じ美意識の上に成り立っているのではないだろうか?
間がないと、苦しくて息が詰まるのは
日本人のDNAかな?(^^)
お能は、神代の時代の「何か」を私たちに伝えているんだと思うんです。
「羽衣」なんて、まさしくそうですよね。
このスーパー能「世阿弥」のクライマックスの舞いは感動でした。
千代に 八千代に 栄え祈らん~
千代に 八千代に 栄えたり~
ヨォ~
終
世阿弥の悲しみで終わるのかと思いきや、
「常緑」の示唆です。
古典を勉強したうえで、一歩前に出なくてはならない。
個性だけで突っ走るのは自殺行為である。
岡倉天心が東京美術学校でそう指導したそうですが、
スーパー能は、まさしく古典から一歩前に出た、これだと思うのです。
もとより私の絵も、それが目標なのですけれども。
千代に八千代に栄え、苔がむした頃、誰かが一歩前に出す。

燻製を作りました。
夫が留守なので、一人淋しく自分にご褒美です。
アードベッグでアイラの潮風でも感じようぞ。