【20//2013】
Category: ◆本・新聞、その他
宮口古墳群(上越市牧)≪ | HOME | ≫糸魚川翡翠鉱物展(ミネラルフェア)
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あの時の木がちゃんと水槽の中で元気そうでなにより。
石棒は足場が悪いことと、4mもの落差を上げたので、男4人でも重かったよ。
持った感じは40キロ弱だけど、ヘタに持つと折れちゃうので大変だった。
先端がお椀みたいに凹んでいるんだ。
因みに雪囲いは男結びじゃなくてもガッチリ固定できるよ。
キリッと縄の先端が立ち上がる感じが縁起がいいとされていたんじゃないか?なんて個人的には思ってる。
Posted at 00:20:14 2013/11/22 by 縄文人(見習い)
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先日はお世話になりました。
おかげさまで楽しませていただいております。うちの大和沼エビさんも、ずいぶんこの場所を気にいっているみたいです。(^^)
>先端がお椀みたいに凹んでいるんだ。
素人が適当なことを言いますが、これ、上下をぶれないように固定しておいて、ろくろみたいに回しながら加工したのと違いますかね?
じゃなきゃ、単純に考えてこんなにきれいな形にならないですよねぇ(・~・;
凹みは軸を取った時、摩擦で擦れて凹んだ跡かなぁと思ってみたりして。私は実物を見ていませんが、実際の感じはどうでしたか?
ろくろ技術というのは土器では弥生からなのでしょうけど、縄文人だってろくろを使っていたのではないかって思うんです・・・。
男結びのいいところは、緩まない他に、紐に殆ど無駄が出ないということも大きな利点かなぁなどと感じます。
少し前に、伊勢貞丈「包結記」の現代語訳を購入して読みました。
たかが結びめ一つの話なのですが、されどですね(^^;
例えば、太刀袋の結び方一つでも、古典の結び方というのは決まっていて、これを知らずに「適当な結び」を絵に描いてしまえば、わかる人にはわかってしまうわけで・・・なかなか古典を描くのは難しいことだと実感しています。
Posted at 14:45:05 2013/11/22 by こしひかりのあとりえ
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残念ながら石棒も凹みも同心円状ではないので、ロクロ使用はまず考えられないね。
それにロクロ使用の場合には、旋条痕があるはず。
驚くべきことは、三千年前の青森県の是川遺跡から漆塗りの木製高坏が出土していて、ほとんど真円に近いということ。
欅の木地なのに、平均厚み5㎜ですよ。
知人の天才木工家に写真見せたら、コクロなくても原始の技術はさもありなんと肯いていたよ。
因みにクソウズって、元は臭水と表記していたようだよ。
Posted at 21:07:24 2013/11/25 by 縄文人(見習い)
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今日たまたまいただいた資料の中に写真が載っていましたが、
まっすぐではなくて、結構曲がっていましたね。
これじゃぁ日時計にもならないや・・・ざんねん
ちなみに、上越から出土した石棒はくぼみは見当たりませんでした。
それにしても、信州型に黒曜石、北陸型、
越の国は、縄文からかなり往来がさかんなのが面白いです。
火焔型というのはやはり西は県境でほぼ止まっているのでしょう?
富山では、大光寺とか大きい遺跡からは見られるみたいですが、
新潟県は火焔型だ!というこだわりみたいなものがあって、面白いですね。
まるで、越後の国域が縄文時代からあったみたい(笑)
去年秋に「千曲川流域 縄文土器展」が長野の県立歴史館で開催さたの
(行かれましたか?)
行けなかったのが今でも悔やまれます(^^;
>因みにクソウズって、元は臭水と表記していたようだよ。
くさいでしょうからね(^^
くそうず=草生水、臭水。または、草生水油、岩油と呼んだようです。
Posted at 16:29:34 2013/11/26 by こしひかりのあとりえ
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火炎型土器は富山まで広がっていますね。
厳密に言えば、火焔型土器、火炎土器、火炎型土器に分類されます。
律令国家成立初期には、信濃川あたりまで越中に分類されていたようですので、火炎土器を作っていた人たちには、越後人という自覚は無かったでしょうね。
しかし面白いことに、縄文時代前夜の旧石器時代後期に日本列島に流行った細石刃文化圏では、東西日本で細石刃の作り方が違うのですよ。
分布表を観ると、その東西の境の日本海側が糸魚川市のようです・・・市内での出土例を聞かないので便宜上かもしれませんが・・・。
旧石器時代には親不知が障壁となって東西交流が活発ではなかったが、磨製石器が使用された縄文時代には丸木舟による海上交通が発達したということだと思います。
因みに縄文土器は素焼きなので、液体を吸い込むのでアスファルトや漆の単独での接合は難しいでしょう。
出土例としては、縄文土器の補修には小穴を開けて紐で固定した上で、防水加工として接着剤が使われたと推測されています。
火炎土器の中で臭水を燃やしていたという説もありますが、東京糸魚川会の帝石の重役さんが書いた随筆が広まっただけで、オコゲの分析から土鍋として使用されていたという事が学術的に定説となっています。
信州・甲州の水煙土器もいいですが、群馬の道訓前型土器もエキゾチックでいいですよ。
Posted at 00:27:46 2013/11/30 by 縄文人(見習い)
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火焔土器というのは雪炎に
付けられた名称で、あとは火焔型土器という認識で大体合ってるかと思っていましたが、
火炎という表記については、定義がいまいちよくわかりません。
興味深いことに県外出土の火焔型土器といわれるものって、様式が県内のものと違うような?ぱっと見た感じで、こりゃ県外かもって感じるのは、博物館で県内の火焔を見慣れているせいかもしれませんけれども。
ところで火焔型におこげと聞くと興ざめするのは多分私だけではないと思いますが、一体なんのおこげなのでしょうか?
まさかご飯?じゃないですよね?プラントオパールもびっくりだぁ~!(゜Д゜)))
歴博にある、、、おばあちゃんが庭の片隅で火焔土器を作っているロウ人形?も、
私にはあまりにショックがおおきすぎて(笑)
火焔型土器には謎を秘めたまま美化し続けたいなぁという思いがあります(*^^*)
旧石器の細石刃、こちらのは細かったでしたか?
たしか長野県立歴博でも記してました。
関係のない話ですが、頸城の方言を調べたことがありました。
青海以西は西日本式、糸魚川以東は東日本式と別れる言葉が多かったように記憶してます。姫川や中ノ俣で別れている言葉もありました。
『しあさって』の定義の境界も青海の市振だと、、、
あらゆる境界を調べたら縄文につながってたりして。おもしろいですね!
Posted at 13:38:32 2013/11/30 by こしひかりのあとりえ
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「火炎土器」とは、長岡の馬高遺跡出土の土器の固有名詞です。
分りやすく分類すると、上越市くらいから富山県に分布する火炎土器は、「北陸タイプの火焔型土器」という仮称が付けられています。
中越の火炎土器との違いは、口縁部の広がりが少なく、文様も半円の青海波模様状が特徴的。
糸魚川市の縄文中期(五千~四千年前)の遺跡に出土する土器様式は北陸系の新崎式、天神山式が大半なので、土器文化圏としては北陸です。
そこに越後・信州・東北の土器様式が混じる感じ。
Posted at 17:22:26 2013/11/30 by 縄文人(見習い)
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> 「火炎土器」とは、長岡の馬高遺跡出土の土器の固有名詞です。
え~初めて知りました。まぎらわしいですが、見つけた方のこだわりなのかなぁ。
いま出産間近の姉に陣痛がきて、富山県の入善に出産しに行ったので、ついでに朝日の土器を見てきます(*^^*)
Posted at 10:34:36 2013/12/01 by こしひかりのあとりえ
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